ファイティング原田(ファイティングはらだ、1943年4月5日 - )は、日本の元男性プロボクサー。
本名は原田 政彦(はらだ まさひこ)。
現在はファイティング原田ジムの会長、日本プロボクシング協会の会長も務めている。
通算戦績 63戦56勝7敗(23KO)


1960年2月21日、4RTKO勝ちでプロデビュー。デビュー時の階級はフライ級であり、東日本新人王戦を順調に勝ち上がったが、準決勝において、同門でかつ大の親友でもある斎藤清作と当たる事になってしまった。
結局、斎藤が「負傷」と言う事で出場を辞退した。
後に、「たこ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続いたという。
1960年12月24日、東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸と対戦。
序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に「カミソリ・パンチ」と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。
この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成。
海老原博幸、青木勝利とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称された。
1962年10月10日、世界フライ級王座に初挑戦。ポーン・キングピッチ(タイ)を11回2分50秒KOで破り、19歳で王座獲得。
1963年1月12日、ポーンとの再戦に判定で敗れ王座陥落、バンタム級に転向。
1963年9月26日、ノンタイトル10回戦で世界3位の強豪・ジョー・メデルに6RTKO負け。
1964年10月29日、ノンタイトル10回戦で東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、世界再挑戦への道を開く。
1965年5月18日、世界バンタム級王座に挑戦。「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ(ブラジル)に15回判定勝ちし、王座奪取。
1965年11月30日、初防衛戦。リバプール出身のアラン・ラドキンを15回判定で破る。
1966年5月31日、2度目の防衛戦。前王者ジョフレを15回判定で下し防衛成功。
1967年1月3日、3度目の防衛戦。かつてKO負けたジョー・メデルとの再戦となるこの試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。
原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15R、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座防衛。
1967年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。
1968年2月27日、5度目の防衛戦。ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けし王座陥落。バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めており、以降フェザー級に転向。
1969年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。王者・ジョニー・ファメション(オーストラリア)から3度ダウンを奪ったにもかかわらず15回判定負け。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。
1970年1月6日、東京都体育館にてファメションに再挑戦するが14回1分9秒KO負け。もはやこの時、原田の肉体は消耗し尽くしており、この試合を最後に引退。