ガッツ 石松(ガッツ いしまつ、英:Guts Ishimatsu、本名:鈴木 有二(すずき ゆうじ)、1949年6月5日 - )は、日本の大学教授、俳優、タレント。
広島国際学院大学現代社会学部客員教授。
元プロボクサー。
元WBC世界ライト級チャンピオン。
通算戦績 51戦31勝14敗6分(17KO)

1966年プロデビュー。
ボクサーとしてはこの時代のオーソドックスな「早いの(左パンチ)で崩して強いの(右パンチ)を入れる」タイプだが、土壇場での打ち合いを嫌ったとされ倒れ癖と揶揄される面もあった。
ヨネクラと契約していたエディ・タウンゼントの教えを受けている。
1969年、全日本ライト級新人王。
同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。
1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって世界挑戦権を得る。
1970年6月6日、パナマでWBA・WBC世界ライト級王座挑戦。
イスマエル・ラグナ( パナマ)に13回TKO負け。
1972年1月16日、5か月前にKO負けしている門田新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。
今度は判定勝ちで王座奪取する。
試合後「今の目標は、生意気ですが、ブキャナン(当時WBA王者)です」と語ったが、3年後には王者としてこのブキャナンの挑戦を受けることになる。
1973年9月6日、WBA世界ライト級王座挑戦。石の拳ロベルト・デュラン( パナマ)の持つ世界ライト級王座に敵地で挑戦し、一時健闘するが10回KO負け。
試合の勝敗以前に石松の「こりゃ勝てない」という諦めの早さに米倉健司会長は怒ったという。
石松も後に全盛期のデュランの余りの強さに「もうだめだ、いつ頃倒れようか。余り早く倒れると敵地なので何が起こるかわからない。結局は自分から倒れちゃったみたいなもの」という主旨の事を後に語っている。
1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。ロドルフォ・ゴンザレス( メキシコ)に8回KO勝ちで王座奪取。
戦績59勝50KO5敗、しかもその前5年間の敗北は一階級上の名王者アントニオ・セルバンテス( コロンビア)に喫した1敗のみという王者に対し、石松の戦績は26勝14KO11敗6分であったため、下馬評は石松の圧倒的不利の予想であった。
だが、試合が始まってみると、石松は絶好調で、毎回ほぼ互角の打ち合いが続いた。
8回、石松のパンチを吸収し、動きがやや重くなった王者に対し、石松は強烈な左フックをヒット、すかさず右をフォローし王者からダウンを奪った。ややレフェリーのカウントはロング気味で、何とか立ち上がったゴンザレスから、すかさず石松は2度目のダウンを奪う。
ところが、レフェリーはこれを「スリップ」と判断し、なおかつキャンバスに倒れた王者を助け起すルール違反を犯す。
セコンドの米倉会長、エディ・タウンゼントらが激高、抗議のためリングに上がりかけるほどの事態だったが、石松は冷静に「大丈夫。倒すから」とセコンド陣を制したのち、その言葉どおりにコーナーでゴンザレスを乱打して、今度こそマットに完全に沈めた。
最初のダウンを奪ったパンチは、本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右のスピードが速く相手には右腕の動きが見切れない事から、“幻の右”と評された。
トレーナーのエディ・タウンゼントも「今日のイシマツ、新しい力入ったのよ。」と驚いたほどの会心の出来だった。
この試合は本来3か月前に行われるはずであったが、ゴンザレスがクモに噛まれたために延期になった。
後に、ガッツは「この3か月の延期によってスタミナを付けることができた。私には運があった。」と述べている。
この対戦から32年後に番組の企画で再会した際、ゴンザレスも貧しい家に生まれたこと、ボクシングの世界チャンピオンになったこと、そして、引退後に俳優になったことなど、あらゆる点で共通していたことを知る。
1974年9月12日、愛知県体育館でチュリー・ピネダ( メキシコ)を相手に初防衛戦、風邪をひいて最悪の体調のため、苦戦するが、辛くも引き分けで初防衛に成功。
1974年11月28日、大阪府立体育会館で、ロドルフォ・ゴンザレスとのリターンマッチに12回KO勝ち。
2度目の防衛。
1975年2月27日、東京体育館で、元王者であり、世界1位の指名挑戦者ケン・ブキャナン( イギリス)相手の防衛戦を行う。
この試合まで56勝25KO2敗の戦績を誇るブキャナンは、超一流のテクニシャン、ややローブロー気味のボディブローでデュランにKO負けし、WBA王座を奪われたものの、その後3年間は負けなし、石松自身を始め、日本の一流どころがいずれも勝てなかった李昌吉( 大韓民国)にもKO勝ちしていた。
序盤は石松がブキャナンの左に合わせて、威力ある右を再三ヒット、ブキャナンは左目が腫れてふさがったが、中盤はブキャナンが全盛期を思わせるスピードで石松の廻りを動きながら、左ジャブを再三ヒットし、ポイントをリードした。
これに対し、石松は12回、左右を風車のように振り回す「ケンカ殺法」でブキャナンのペースを乱し、最後の3Rはほぼ一方的に打ちまくって3者一致で判定勝ち、WBCは、この月の月間MVPに石松を選出した。
最強の挑戦者ブキャナンを下した事で、石松の評価は揺るぎないものになった。
1975年6月5日、大阪の近大記念体育館で、前回引き分けているチュリー・ピネダと再戦、今回もやや手こずったが、終盤はアウトボクシングするなど、ピネダの攻勢をかわし、3者一致の判定勝ちで4度目の防衛に成功。
このあたりから、ライト級の体重維持がだんだん苦しくなる。
1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス( コスタリカ)を苦戦の末、14回に右アッパーで倒し5度目の防衛。
「13kg減量」が話題となったが、実際には19kg減量、しかも試合前1か月間で10kg落としたと言われている。
1976年5月8日、エステバン・デ・ヘスス( プエルトリコ)に15回判定で敗れ王座陥落。
この試合、経済的に後進国だったプエルトリコが、当時としては異例の20万ドルを石松のファイトマネーに用意したことから、ヘススへの期待と石松の人気が窺える。
1977年4月2日、WBC世界Jウェルター級(現・スーパーライト級)王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリン( タイ)に6回KO負け。この試合、石松にとって1年ぶりの試合であり、約15キロの減量を余儀なくされていたため勝算の少ない挑戦であった。
1978年、後の日本Jミドル級王者・新井容日(大星)に判定負けし、引退。