■ 専門店街への流れ
日本橋界隈の商店街は、難波・高島屋東側の”なんさん通り”に沿って右折し、日本橋二丁目から五丁目あたりが中心である。その中心が”でんでんタウン” の電器街。電器のことなら、家庭電化製品はもとより音響、照明からマルチメディア関連商品まで、安価に何でも揃うと評判が高い。町は、いつも光と音と色彩に溢れて活況を呈している。
東京の日本橋がニホンバシであるのに対して、大阪の日本橋は”ニッポンバシ”である。そして「東の秋葉原・西の日本橋」と呼ばれ、わが国の二大電器店街を形成している。日本橋商店街が、電器の専門店街になったのは戦後のことである。その経緯は本誌・第三部以降に詳しい。戦前は東京の神田に劣らぬ古書店が踵を接する町であった。それが明治後期から、大正・昭和前期の日本橋である。江戸時代から明治初期にかけては、旅籠屋・木賃宿が並び、古着屋、薪炭商、下駄屋が軒を連ねた時期もあった。そのうち、下駄の製造販売は、現在も履物の卸販売として生き続けている。日本橋二丁目から東の伸びる道路沿いの”はきはきタウン”である。最近は、店舗スペースなどの関係で郊外に移転する店が多く、店舗数は激減したが家具販売の店が、なんさん通り周辺に集中していた頃もあったさらに建築関係の道具類を中心に商う五階百貨店、厨房関係の道具なら何でも揃う道具屋筋商店街など、規模の大小はあるものの同業種の店が軒を接して競い合う専門店街が日本橋界隈の特徴になっている。
このような商店街の性格を『明治大正大阪市史』は次のように伝えている。(原文のまま)
「商店街商店『そこへ来る』又は『その地點を通過する』公衆を相手とする商店が構成する商店街には同種或いは同系統の商店が相並列せる場合と、異種の小売店が互いに混淆櫛比(いり混じって隙間なく並ぶ)せる場合とがある。前者は座摩の前筋、佐野屋橋筋及び日本橋筋の古着商、谷町の古洋服、日本橋の古本屋の如きもので、購買者をして各戸に就き選擇をなして満足を興ふるに便ならしめている。・・・後略・・・」
明治・大正時代の日本橋筋に、古着商、古書店の同種商店が多数軒を並べていた様子が記録されている。
第一部の「宿場町に集まる貧困者たちの群れ」の文中に、長町住民の下職として、唐傘張りが書かれているが、この唐傘は名前でわかように唐(外国)から到来した傘であった。「摂津名所図会大成」の紹介を要約すると、文禄三年(一五九四)に堺の納屋助左衛門という貿易商が呂宋から土産として持ち帰り、浪花や堺で製造されるようになったと記されている。
当時、油を引いた防水の傘は大量生産に向く最新の商品であったであろうし、明治後期に大学生が増えれば古書を商う商売が隆盛するなど、日本橋はつねに時代を反映する商業の町であった。その系譜をたどれば、戦後に電器の町として発展したのも、あながち偶然だけでは片づけられない歴史的伝統を感じる。
続きはまた明日・・・。
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